南宋の後半期は、社会の安定と産業の発展、それに印刷出版の隆盛といった諸条件に支えられて作詩人口が格段に増え、「江湖派」と呼ばれる民間の小詩人たちの時代となります。その先駆として登場し、一世を風靡したのが、
銭鍾書氏は『宋詩選注』の中で、永嘉の四霊を「同一の流派に属し、見た目もほとんど変わらない、小魚のような小家にすぎない」と評しています。確かに、同じ南宋の詩人でも、陸游、范成大、楊万里といった大家に比べれば、四霊の詩はいかにもこぢんまりとしていて変化に乏しく、没個性的に見えるかも知れません。しかし彼らの詩をじっくり読むにつれ、小詩人には小詩人なりに個性があり、四人が四通りの風格を有していることが次第に見えて来るのです。ここに紹介する作品はいずれも七言絶句ですが、「推敲」で名高い賈島に学んだだけのことはあり、どの詩もすみずみまで彫琢が施され、入念に磨き上げられています。吉川幸次郎氏が『宋詩概説』で指摘するように、四霊が中晩唐の枯淡な詩を専一に学んだのは、何よりそれが「民間人がまず学ぶべき詩風として適切」であったためであり、李白や杜甫などの大家を「鬼神を敬して之れを遠ざけた」結果に他なりません。しかし、そうして平凡な民間人の身のたけにふさわしいお手本を呈示できたからこそ、彼らの詩が広く支持され、次の江湖派の時代を導く推進力ともなり得たのです。
ただし、彼らの詩はついに唐詩の真髄には至り得ませんでした。彼らの自覚とは裏腹に、四霊の詩はその方法論といい作風といい、結局において宋詩の範疇に収まっており、どうしても本物の唐詩とは一線を画します。たとえば、楊万里の影響を強く受けているという一点からしても、彼らも大きくみればやはり江西詩派の延長上にある詩人たちである、ということになるでしょう。唐詩の復活を標榜した四霊も、宋代の詩人たち、特に江西詩派の影響を完全に払拭し、真に唐代まで遡ることはできなかったのです。